📝 目次
- 就職氷河期、新卒だった頃の話
- まさかの研修内容だったベンチャー時代
- 配属先はまさかの「きのこ開発課」
- 隣県の山での松茸栽培実験
- 掘っ立て小屋で教わったきのこ味噌汁の秘密
- 二年目は動物実験チームへ
- 大学との共同研究とスーパーの袋事件
- 給料遅延、そして取りっぱぐれた未払い給料
- ネットカフェ通いの転職活動、そして今の会社へ
- 借金五百万、会社倒産、それでも絶望はなかった話
🕰️ 就職氷河期、新卒だった頃の話
今日は約二十年前、私が新卒で就職した時の会社の話を書いてみたいと思います。来週に手術も控えていて、釣りも麻雀もできない状態なので、ちょっと懐かしい話をしようかなと思いました。
来週の土曜日手術なので終わったら簡単に更新したいなと思います。もし、更新がなかったら・・・・お察しください。
私は地方の国立大学の大学院を出ています。レベルとしてはそれほど高いところではなく、中堅くらいの大学でした。そしてちょうど就職氷河期の真っ只中だったんですよね。一つ上の先輩たちはそれなりに良い企業に決まっていたので、自分もどうにかなるだろうと、正直なところ楽観的に構えていました。
ただ、私はもともといい加減なところがあって、就活の準備をほとんどしないまま、ぎりぎりまで動かなかったんです。実際に合同説明会のようなものに行ってみると、二人か三人しか採用しないような企業に、五十人、百人と学生が押し寄せている状態でした。私が応募したところは、テレビでよく見るような大手企業ばかりで、志望動機すらろくに考えていなかったので、結果は散々なものでした。
そのうちにもう就職はいいかな、修士課程は終わっていたので、このまま博士課程に進もうかな、と考えるようになっていました。そんな時、後輩が読んでいた本がきっかけになりました。それはあるベンチャー企業について書かれた本で、読んでみると素直に面白いなと感じたんです。調べてみるとちょうど募集をしていたので、ものは試しと受けてみました。
そうしたら、まさかの合格。じゃあこれも縁かな、面白そうだし行ってみようという、わりと軽い気持ちでそのベンチャー企業に就職を決めたというのが、正直なところの経緯です。
🐟 まさかの研修内容だったベンチャー時代
そんなこんなで、某地方のベンチャー企業で働くことになりました。まずはそこでの研修の話をしようと思います。この会社はいろいろな事業を手がけていて、研修の内容もかなり特殊でした。
最初にやったのは、鯉の餌やりです。水をきれいにする目的があるとかで、鯉を大量に飼っていて、その世話をするという仕事でした。この事業を仕切っていたのが中国人のリーさんという方で、私とはとても仲良くなりました。あるとき鯉が全部死んでしまったことがあったらしく、リーさんが慌てて鯉を買い足して補充していたこともあったそうです。このリーさん、運転がとにかく面白くて、鯉の養殖場まではすぐ近くなのに、フルアクセルとフルブレーキしかない運転をする人でした。短い距離でも常に全開で走るので、乗っていて本当に怖かったです。
次にあったのが、養豚場の清掃でした。臭くない養豚場を目指すという事業だったのですが、実際は普通にとても臭くて、豚の糞をかき混ぜるという仕事をしていました。特殊な食べ物と床の空気を循環させることで臭くならない、という理屈だったと記憶していますが、今思い返しても正直よく分からない仕事でした。それでも、それはそれで面白い経験でした。
もう一つの研修は、きのこの選別作業でした。元々硬い品種のきのこがあって、それに石などが付着してしまうため、歯ブラシのようなものできれいに磨き上げるという仕事です。これを朝から晩までひたすら続けるという、なかなか根気のいる作業でした。
🍄 配属先はまさかの「きのこ開発課」
こうした研修を三ヶ月ほど経て、いよいよ配属が決まりました。辞令をもらって書かれていたのが「きのこ開発課」。何だそれはと思いつつ、面白そうだしまあいいかという気持ちで配属されることになりました。
配属先は本社から車で三十分ほど離れた山の中で、もともと蚕の生産をしていた場所を改造した、古びた小屋でした。そこに配属されたのは、二つ上の上司と同期、そして私の三人だけという、なかなか驚きの体制でした。
仕事はきのこの栽培の様子を見ながら、施設を掃除するというのが基本でした。これがすぐに終わってしまうんです。他にも栽培専門のスタッフとしておばあちゃんがいたのですが、この方が大のギャンブル好きで、いつもパチンコの話ばかりしていました。朝出勤すると、まず千円札を渡されて「これでナンバーズ買ってきて」と頼まれるのが日課になっていて、どの数字を買うか聞くと、こちらが適当に言った数字には「駄目だね」とダメ出しされ、結局最後は自分の思っている数字を言うと「いいね」と言われて、それを買いに行かされる、という謎のやり取りが続いていました。
午前中には仕事が終わってしまうこともよくあり、きのこ栽培の手伝いをしたり、ベンチャーらしく夢を語る社員の話に付き合ってみたりと、かなり暇な時間を過ごしていました。あまりに暇すぎて、この頃にタバコを覚えてしまったというのも、今思えば良い思い出とは言えないエピソードです。
そんな中で面白かったのが、週に二回、隣の県の山まで出かける日があったことです。今思えば、ちょっとしたピクニックのような感覚でした。
⛰️ 隣県の山での松茸栽培実験
隣の県の山では、松茸の栽培実験を行っていました。もともと松茸が採れる山を借りて、松茸の菌をつけた赤松の苗木を植えて、どのように育つかを観察するという内容です。ただ、成果が出る前に事業自体をやめてしまったので、結局どうなったのかは分からないままでした。
水やり自体はすぐに終わってしまう作業だったので、帰りには山に入ってきのこを採りに行くのが恒例になっていました。表向きは新しく栽培するきのこの元を採取するためでしたが、実際には半分遊びのようなものでした。それでもその山の空気がとても気持ちよくて、すごく楽しい時間でした。
採ってきたきのこのうち、たくさん採れたものはそのまま持ち帰って食べていました。今思うとかなり贅沢な生活だったと思います。松茸に関しては上司が真面目な人だったので、研究用だからと、あまり分けてもらえなかったのですが、たまにいただけることもありました。
実際に食べてみると、確かに美味しいのですが、松茸というのは普段食べ慣れていないと、腐っているのかと思うくらい独特な香りがするものなんですよね。昔から食べ慣れている人にとっては懐かしく感じる価値のある香りなのだと思いますが、初めて食べる人にはあまり美味しいと感じられないかもしれません。慣れてくると美味しく感じられるようになります。そういう意味では、本しめじのようなきのこの方が、最初から素直に美味しいと感じられる味だと思います。ちなみに松茸の一番美味しい食べ方は、個人的には天ぷらだと思っています。おかげでこの頃はいろいろと貴重なきのこを食べる機会に恵まれました。
🍲 掘っ立て小屋で教わったきのこ味噌汁の秘密
秋になると、山の途中に掘っ立て小屋のようなものが立ち並び、きのこや野菜を売っている光景を見たことがある方もいるのではないでしょうか。山からの帰りにそこへ立ち寄るのも、当時の楽しみの一つでした。あまりきのこが採れなかった日の帰りなどには、そこできのこの味噌汁を振る舞ってもらうことがあり、これがとても美味しかったんです。
同じきのこを買って自分で作ってみても、なぜか同じ味にならないことがありました。不思議に思って、その小屋の人に作り方を教えてもらうことにしました。作り方自体は、きのこを入れて茹でて、味噌を入れるという至って普通のものだったのですが、その後に大量の白い粉を入れていたんです。何かと尋ねると、味の素だという答えが返ってきました。え、味の素!?と、正直絶句してしまいました。
これは理にかなっているなと納得しました。味の素の主成分はグルタミン酸で、きのこの旨味成分はイノシン酸です。この二つを組み合わせると、単純な足し算ではなく、四倍近くまで旨味が増すのだそうです。きのこ料理を作るときは、きのこ本来の旨味に加えて味の素を少し入れると、ぐっと美味しくなるということを、この時に実感しました。
🐭 二年目は動物実験チームへ
そんな生活も一年ほど過ぎた頃、会社の業績が徐々によろしくない状態になってきました。そのタイミングで異動になり、二年目は動物実験のチームに配属されることになりました。
それまで動物の解剖などまったくやったことがなかったのですが、とりあえずひたすら解剖をする毎日でした。育てていたきのこを動物に与えて、体にどのような影響が出るかを調べるという内容です。ここも会社の脇にある小さな小屋のような場所で作業をしていたのですが、不思議なことにこの仕事もだいたい午前中には終わってしまい、みんなでずっと漫画を読んで過ごしていました。
ところが五時前後になると、なぜかまたそこから仕事を始めるんです。典型的な無駄残業だったなと、今振り返ると思います。それは業績も傾くだろうなと感じます。部長も部長で、わざわざ来ては一時間ほどタバコ休憩をしていました。当時吸っていたのは「サムタイム」というタバコだったのですが、あれだけ休憩ばかりしているなら「エニタイム」の間違いじゃないかと、心の中で突っ込んでいました。今ならサボっているように見られてもおかしくないですが、当時は周りもみんなそんな感じだったので、特に問題視されることもありませんでした。
🔬 大学との共同研究とスーパーの袋事件
ちょうどその頃、某大学の医学部との共同研究の話が持ち上がったんです。周りの先輩たちは面倒だからと行きたがらず、結局、入社したばかりの私が行かされることになりました。
内容としては、遺伝子を組み替えた特殊なマウスを使い、その遺伝子がきちんと入っているかを検査する作業と、きのこを使った餌を与える作業、そして解剖が中心でした。向こうの大学の方々にはとても可愛がってもらい、今となっては良い思い出です。
ただ、当時はかなり貧乏で、大学に行くのも作業着のままで、バッグすら持っていませんでした。筆記用具などをむき出しで持ち歩いていたところ、向こうの教授が気を遣ってくれたのか、スーパーの袋を「これに入れなよ」と渡してくれたんです。ありがたく使わせてもらっていたのですが、それが逆にとても目立ってしまい、「なんだこいつは」と思われていたと思います。当時はまだ若く、それなりにモテていた時期でもあったのですが、ある日「大学の中にスーパーの袋を持っている人がいるらしいけど、知ってる?紹介してほしい」と言われたこともありました。
💸 給料遅延、そして取りっぱぐれた未払い給料
そんなふうに二年目を過ごしていたのですが、二年目の夏頃から、給料の遅延が発生するようになりました。最初はほんの数日程度だったのが、だんだん一ヶ月、二ヶ月と伸びていきました。給料日には並んで、封筒に四万円ほど入ったものを全員が同じように受け取るという状態で、生活費としてはまったく足りていませんでしたが、それでも受け取っていました。この状態が半年以上続きました。
普通の会社なら給料未払いなんてあり得なし、ましてや半年も滞納して社員が辞めない会社もないと思います。その当時は就職氷河期だったと言うのもあって今とは違う感じだったと思います。嘘でも「給料払えなくてすいません」って言うじゃないですか、その当時の社長は「辞めたい人は辞めればいい」って言ったんですよ。まぁその通りなんですけどね。そこまで開き直られると逆に清々しいですね。
会社では物品の購入すらまともにできなくなっていきました。研究で使う塩化ナトリウム、要するに普通の塩ですら、通常なら決裁書など不要なはずのものが買えなくなり、購入するには取締役の保証のようなものが必要だと言われる始末で、最後の方は本当に何もできず暇な時間を過ごしていました。
結局、最終的には八十万円か九十万円ほどの未払い給料を取りっぱぐれることになりました。その間は親に少しお金を借りて、すぐに返すつもりで生活していたのですが、そういう時に限って人はお金の使い方がおかしくなるもので、夜な夜な駅前の怪しく薄暗い雀荘に通うような生活をしていました。決して褒められた場所ではなかったです。
いよいよこれはまずいという時期に、直属ではない別のチームの上司に「辞めたい」と相談したことがありました。その方も給与が遅延している状況で、お子さんもいて生活は大変だったはずなんですけど、どこからか三十万円を用意してくれて、「もう少し待って頑張ろう」と声をかけてくれました。どこから工面してくれたのかは分かりませんが、今でも感謝しています。それでも状況は好転せず、最終的にはもう限界だと判断し、転職を決意することになりました。
💻 ネットカフェ通いの転職活動、そして今の会社へ
転職を決意したのはいいものの、当時はパソコンも持っておらず、携帯もガラケーだったので、メールを確認することができませんでした。そのため、転職活動用のメールを確認するためだけに、わざわざネットカフェに通うという生活をしていました。今考えると笑ってしまうような話ですが、当時は本当にそんな状況でした。
実家に戻ってもよかったですし、アルバイトで食いつなぐという選択肢もありましたが、とりあえず就職しようと考え、今の会社に入ることになりました。特にやりたい仕事だったわけではなく、正直なところ「食いつなぐため」というのが本音でした。しかし、そこからだらだらと二十年近く続けてしまったというのが、今に至るまでの経緯です。この先の詳しい話は、まだ現在の仕事に関わる部分もあるので、あまり深くは触れずにおこうと思います。
🌱 借金五百万、会社倒産、それでも絶望はなかった話
結局その会社は、私が辞めてから半年か一年くらいで倒産しました。当時の自分の状況を振り返ると、奨学金が二百二十万円ほど残っていて、車を買うために親から借りていたお金が百三十万円ほど、さらに敷金・礼金などで二、三十万円、そして生活費として借りていた分が百万円ほど。合計すると、おそらく五百万円くらいの借金を抱えていたと思います。二十七歳の時の話です。
不思議なもので、当時はまったく絶望していなかったんですよね。今より希望があったというか、何とかなるだろうという感覚がありました。若かったからなのか、今振り返ると不思議な気持ちになります。あのままあの会社がだらだらと存続していたらどうなっていたんだろうと考えることもありますが、それはそれで幸せだったのかもしれないですし、今となっては分かりません。
その会社の未払い給料については、裁判も起こしました。ただそれも時間が経つにつれて記憶が薄れていって、今となってはもう、ひとつの良い思い出という感覚になっています。
